marry me

 子どもの頃から雨の日が好きだった。
雨の日だけ履ける可愛らしいデザインの長靴に、お気に入りの雨傘。ぴちゃぴちゃと足音が響くのが楽しくて、わざと水溜りを踏んで歩いたりもした。
 流石に大人になった今、そんなことをすることはなくなったけれど、相も変わらず雨の日が好きだったりする。理由なんていつだって単純で、それはもう呆れてしまうくらいに──。

「流石にこの天気では、僕たちの他にあまり人は居ないみたいですね」

 苦笑する安室さんの声に、小さく笑い声を返して彼の蒼い瞳を見上げる。

「ふふ、じゃあ……二人きりだね」

 きっと残念がるとでも思っていたのだろう。安室さんは少し驚いたような顔でぱちぱちと蒼い瞳を瞬かせた後、その垂れ目がちな目尻をより一層緩ませて優しく微笑み呟いた。

「……ええ、そうですね。まるで貸切だ」

 紫陽花に、ハナショウブ、蓮の花──。
季節の花々が色鮮やかに咲き誇る庭園は、本来ならば私たちのようなカップルや家族連れで賑わっているはずだった。それもこの生憎の雨模様で人足も少なく、ここに着いた時から今までまだ誰ともすれ違っていないくらいだ。
 普通の女の子ならば、きっとここで文句のひとつでも出るのかもしれない。折角セットした髪だって湿気で崩れるし、足下だって雨のせいで歩き難い。
 それでも、この雨のお陰でこうやって安室さんとひとつの傘で歩けるわけで、距離だっていつもよりなんだか近い気がする。

「ほら、濡れてしまうからもう少しこっちへおいで」

 さり気なく反対の手で持ち替えられる傘。
大きな手の平が肩に重なり、ぐいっと引き寄せられた。さっきよりも更に近い。ふわりと安室さんの胸元から石鹸のような爽やかな香りがした。

「安室さんだって、肩濡れてるよ」
「僕はいいんです、僕は」

 女の子は身体を冷やしちゃいけないよ、と諭すように告げる安室さんのせいでちょっとだけ頬が紅くなってしまった。

「急にそうやって女の子扱いするんだから……」とぶつぶつ言う私を安室さんは声を潜めて笑う。

「もう!笑い声、隠しきれてないよ!」
「ふふっ、ごめんなさい……君があまりに可愛い反応をするのでつい……折角のデートなんですから、拗ねないで」
「……あそこのカフェでジェラート買ってくれたら許してあげる」
「え、ジェラートですか?……うーん、買ってあげたいところだけど、こんな雨の日に食べたら寒くなってしまいますよ」

 何か他の物じゃ駄目かい?と私の肩の辺りを緩々と大きな手の平で摩りながら安室さんが問う。眉尻まで少し下げて、困ったなと心の声がだだ漏れだ。ポーカーフェイスなことも多い安室さんだけれど、偶にこうやってわかりやすい顔をするところも可愛いなあと思ってしまう。きっとそんなことを言えば、「可愛いって……僕、もうすぐ三十路ですよ?」と苦笑するんだろうな。やっぱり可愛い。

「駄目。だってもうジェラートの身体になっちゃったもん!ほら、あの看板見て!北海道産濃厚ミルク。美味しそうじゃない?」
「……確かに」
「季節のフレーバーだって!何だろうね」
「この時期だと桃やメロン、さくらんぼといったところでしょうか……美味しそうですね」
「ね、ほら安室さんも食べたくなってきたでしょ?」
「はあ……ったく、仕方がない人ですね。それじゃ、一緒に何か温かい飲み物も頼みましょうか」
「ふふっ、有難う」

 傘を持つ安室さんの身体にぎゅうっと抱きついてお礼を言うと「……本当に君はゲンキンな人ですね」と安室さんはそっぽを向いて満更でも無いような表情を浮かべたのだった。

「すみません、まだやってますか?」
「ええ、どうぞ」

 少し年配の優しそうな店員さんが笑顔で迎え入れてくれた。安室さんと顔を見合わせてホッと一安心。ランチの時間も過ぎた雨の日だからやっていなかったらどうしようと少し心配していたのだ。
 安室さんの想像通りの季節のフルーツを使った限定ジェラートに、定番のミルクやチョコレート。ピスタチオも美味しそうだ。
 ひとつひとつ丁寧に説明してくれる店員さんからテイスティングスプーンを受け取りつつ、「どれにする?」と安室さんの横顔に話しかける。

「そうですね、折角なのでひとつは季節のフレーバーを頂きたいところですけど……君はどれがいいんだい?」
「うーん、桃もさっぱりしてて美味しいけど普通にミルクも捨てがたい……」
「二種盛りも出来ますよ」

 安室さんと二人して顎の下に手を添えて悩みこんでいると、見かねた店員さんが助け舟を出してくれた。いつの間にか安室さんの癖が移ってしまったようだ。店員さんに微笑ましそうな表情をされ、少し照れてしまう。

「仲が良いみたいね。新婚さん?」
「え、あの……結婚はまだ……」
「あら、そうだったの。ごめんなさい、お似合いだからてっきり」
「有難うございます……いつかそうなれればと僕は思っているんですけどね」
「え、!」
「ふふ。お兄さん、頑張るのよ!」

 応援されてしまった。これもあげるだなんて可愛い薔薇の形を模したクッキーまで頂いた。

「カップルに人気のスポットがあるの。奥のローズガーデンにはもう行ったかしら?薔薇のアーチがとっても綺麗よ」とお勧めスポットも教えてくれた親切な店員さんにお礼を告げて、ジェラートとホットコーヒーを手にテーブル席へと移動する。

 結局、ジェラートは私が食べたがった桃とバニラ、そして安室さんはメロンとピスタチオをチョイスした。私が最後まで悩んでいたメロンを入れてくれるあたりに安室さんの優しさを感じる。きっと私がひと口頂戴というのを見越しての選択だろう。いつもこうやって必ず私の好みを聞いてくれるのだ。本当、甘やかされているなと自分でも思う。

「あ、ローズガーデンありましたよ」

 ジェラートをスプーンで突きながら、庭園のマップを見ていた安室さんが呟いた。マップ上の一点を小麦色の節くれ立った長い指がトントンと叩く。ここからそんなに距離はないみたいだ。可愛い薔薇のイラストが描かれた下に確かにローズガーデンと記されていた。

「わりと近いね。ねえ、後で行ってみる?」
「そうですね、折角教えて頂いたので行ってみましょうか……それと、はい」

 口の前に差し出されたスプーンを見つめる私に「ほら、食べたかったんでしょう?メロン味」と安室さんは口を開けるようにまたずいっとスプーンを近付けてくる。おずおずとスプーンを口に含む私を満足そうに見遣る安室さんはまるで餌付けを見守る親鳥のようだ。にっこりと微笑んで、「もっと要るかい?」と聞いてくる安室さんに「もうひと口だけ……」と告げると安室さんは更に嬉しそうな顔を見せてジェラートを掬い始めた。

 ◇◇◇

「思ったより、凄いね……!」
「ええ、一つだけかと思ってましたが幾つもアーチが連なっているんですね」

 薔薇の開花時期は五月から六月にかけてですから、丁度今が見頃なんですよ。いつもの様に蘊蓄を披露する安室さんにへえ、と相槌を打つ。咲き終わってしまったのか、一部裸のアーチはあるものの、ピンクや白など色とりどりの薔薇のアーチに目が奪われてしまう。薔薇を見上げて歩く私の速度に合わせてゆっくりと歩いてくれる安室さんと濡れないように肩を寄せ合って進むと急に安室さんが口を開いた。

「薔薇の花言葉って聞いたことがありますか?」
「うん、色とか本数とかで意味が変わるんだっけ?」
「はい。例えば、一本だと“一目惚れ”や“あなたしかいない”なんて意味があるみたいですね」
「あ、聞いたことあるかも!」
「ふふ、女性は花言葉好きな人多いですよね」
「確かに、花言葉とか占いとかなんかそういうの好きかも。安室さんはさ、私に薔薇の花束くれるとしたら何本のくれるの?」

 ちょっとだけ、好奇心で聞いてみたくなってしまった。言われてもすぐには意味が思い出せないかもしれないけど、後で調べてみてもいい。そうですね、と少し考える素振りを見せる安室さんはきっと本数ごとの意味を覚えているのだろう。この話題を持ち出したのだって安室さんなのだから、当然かもしれないけれど。
 傘片手に考えている安室さんを見上げると、どうやら何本にするか決まったようでふっくらとした唇が綺麗な弧を描いた。

「今は百一本ですかね」
「百一本?」
「はい。でも、いずれは七本足して百八本の花束を君にあげたいと思っているんですけど……受け取ってくれるかい?」

 何故か百八本の意味だけはしっかりと覚えていた。全く、都合の良い記憶力だ。打ち付ける雨音をBGMに、少し背伸びをして安室さんの首元に腕を伸ばす。ちょっと高めのヒールを履いていて良かった。私の意図に気付いて少し背を屈めてくれた安室さんの首に腕を巻きつけて、その厚めの唇に口付ける。

「ん、」

 傘を持っていない方の手が私の腰を支え、唇を割るように熱い舌が押し入ってきた。絡める舌が奏でる音さえも、雨が打ち消してくれているような気がする。どんどんと激しくなる口付けに比例するように、雨も激しく降り始める。遠くの方でゴロゴロと鳴り始めた雷に、ぴくりと身体を震わせると漸く安室さんが離れていった。

「……結局少し濡れてしまいましたね。風邪を引くといけないからそろそろ帰りましょう」
「うん……」

 こんな雨の日も悪くないなと、安室さんの胸に頭を寄りかからせながら、やっぱり私って単純だなあと思ったのだった──。