「風見さん知ってました?今日ハンサムの日なんですって!」
カタカタと音を鳴らしながらキーボードを叩いていた名字が、凝り固まった身体をほぐす様に組んだ手の平を頭上へと伸ばす。ったく、そんなに力んでタイピングするから肩が疲れるんじゃないのか?以前、名字にタイピング音が煩いと注意したこともあったが、気を抜くとすぐにこれだ。呑気にんっーと気持ち良さそうな声を上げて、「そういえば、」と隣に座る風見へと名字は先程の言葉を投げかけた。
──8月6日、ハンサムの日。やや無理矢理な語呂合わせに僕はどちらかといえばハムの日の方が合っているんじゃないか?と、溜まりに溜まった書類に目を通しながら少し離れた席に座る二人の会話に聞き耳を立てる。
「降谷さん、こちらにもサイン頂けますか?」
「ああ……」
久々に登庁した僕の元へと先程から人が代わる代わるやってきては、やれサインだ判子だと声を掛けてくる。ペーパーレスがどうのというわりには、未だにこういった習慣が強く根付いているのだから可笑しな話だ。僕に背を向けて自分の部署へと戻っていく男の後ろ姿を眺め、ぐりぐりと眉間を指で揉み解す。流石にこの量の書類仕事は疲れる。もっと日頃から効率良く処理しておくべきだったな。
「ハンサムと言えば、あの人ですよね……」
どうやらまだその話題が続いていたらしい。すっかりとキーボードの上から離れた名字の手は、今は胸の前でぎゅっと組まれている。頬を薄っすらと染めてどこか遠い目をする名字を隣に座る風見が呆れた顔で見つめていた。
あの人、という言葉に僕はごくりと唾を飲む。どこかそわそわとして落ち着かない。コホンっと態とらしく咳払いをして、未だにどこか夢心地な表情を浮かべている名字の方をチラリと確認すると、色を乗せた艶やかな唇がゆっくりと動いてある男の名前を呟いた。
予想もしていなかったその名前に、僕の手の平の中でバキッ!とボールペンが嫌な音を立てた。チッ、良い値段がするわりには随分とお粗末な作りだな。これくらいの衝撃で折れるだなんて、きちんと耐久テストをしたのか?と、僕は真っ二つに折れたボールペンに心の中で八つ当たりに近い言葉を呟いた。仕方がないだろう、まだ数回しか使ってないんだ。恨み言も言いたくなる。それを抜きにしたって、今の僕は頗る機嫌が悪いんだ。
「あー、赤井さん今何してるんでしょうね?またFBIと合同捜査にならないかなー」
「っ、名字、お前……その名前は今出さない方が……!」
僕の機嫌の悪さを察知してか、室内はピリピリとした空気に包まれているのに、そんな空気さえも読めないのか名字は一人呑気に仕事とは全く関係のない話を続けていた。おい、勤務中だぞとでも注意してやるべきだろうか。
「大人の色気っていうんですか?」と、頬を緩めて尚も“あの男”の話を続けている名字とは対照的に、風見は僕の機嫌を察知してか一人慌てた様子だ。大体、あんな男の何処が良いというんだ?僕の方が、百倍、いや百億倍はいいに決まっている。
慌てた風見は、更に余計なことを言い出す前に名字の口を塞ぐ方が手っ取り早いと思ったのだろう。賢明な判断だが、その唇に触れるのはいくら風見といえども気に入らないな。
風見の手が名字の唇へと伸びる寸前のところで、それを阻止するようにその手首を掴んだ僕に「……ふ、降谷さん!」と風見が冷や汗を垂らしながら僕の名前を呟いた。冷ややかな目で風見を一瞥すると、風見はビクッと震え上がった後、慌てたように背筋を伸ばした。
勿論、この室内を妙な空気にした張本人を僕が放っておくわけがない。空いている右手で名字の肩を掴むと、怪訝な顔で彼女が振り向いた。「……降谷さん、痛い」と文句を零す名字の言葉を無視して僕は彼女を問い詰める。この状況で僕に文句を言える度胸だけはかってやろう。
「なあ、……さっき口に出したくもない男の名前が聞こえたような気がしたんだが、僕の聞き間違いだよな?」
「え、聞いてたんですか」
「お前たちの声がデカすぎるからだろう……聞きたくなくてもこちらまで聞こえてくる」
そのまま名字の座る椅子をくるりとひっくり返して、ぱちりと瞬きを繰り返している名字の顎へと指を伸ばす。親指を添えてくいっと上を向かせれば、驚いた表情の名字と目が合った。
「で、誰がハンサムだって?」
──今度こそ殺したい程憎んでいる男の名前なんて言わせない。笑顔を貼りつけて凄む僕に、名字はハッと息を飲んだ。そんな僕たち二人の様子を眺めながら風見はまた一人頭を抱え込んだのだった。仕事中の雑談は控えめに。